「脱学校」宣言 〜大学に所属していませんが、何か?〜
管理人の本職は、教育関係です。そんな管理人ですが、教育や指導という行為に対して、違和感・モヤモヤをずっと拭えずにいました。そんな最中、『冒険の書 AI時代のアンラーニング』を読んで、違和感・モヤモヤの正体がわかり、スッキリとした気分になりました。
けれども、それと同時に「このまま教育関係の業務を続けていいのだろうか」という不安感に襲われもしました。今は、不安感に押しつぶされそうになりながら、頓服薬を服用しての勤務をかろうじて続けております。
学校教育に対する違和感・モヤモヤ
思えば、大人数に対する一斉指導や、素行や態度に対する生活指導など、教師の権限を根拠に指導や規律を課す行為に対して、違和感を感じていたようです。
p.45 学校は、監視・賞罰・試験という3つのメカニズムの複合体だ。規律や訓練で子どもたちを秩序の中にはめ込み、生徒が自ら服従するよう、巧妙にできているのだよ。
上記の一文には、本当にハッとさせられました。教師自身も、生徒に3つのメカニズムを課すことで、生徒が自ら服従することに、無意識に加担しているのではという、ある種の恐怖を感じてしまいました。
p.100 「学びは本来、自分の好きなように行える自由な活動であるはずなのに、学校はそれを『教わる』という受け身の活動に変えてしまいます」
確かに。
自由な活動であるはずの「学び」が「教わる」という受け身の活動に変わってします。
その変化に加担することは、果たして子どもたちのためになるのだろうか。
そんな疑念が絶えず心の中に芽生えています。その疑念を抱えたまま、業務をすることが苦しいのかもしれません。
「学校だけが学びの場である」という盲信
また、本書では、小学校をドロップアウトして動画で学ぶことをYouTube上で表明した小学生に対して、「そんなものは学びがじゃない」といった批判コメントが殺到した事例を上げた後で、以下のような指摘をしています。
p.101 人は学校でしか学べないわけがありません。
その通りだと思います。
学校は、学びの場を独占するとともに、学校以外の学びの場を否定する仕組みを巧妙に維持する装置と化してしまいました。その結果、学校だけが学びの場であるということを盲目的に信じる人間が大多数を占めるようになりました。
先日、管理人はX(旧twitter)にて、以下のようなツイートをしました。
【課程博士を諦めない】 今の経済状況が続くとすると、奨学金の完済にあと8年弱。そこから大学院博士後期課程の学費を貯めていくことになると、大学院博士後期課程に入学する頃には、おそらく65歳を過ぎていると思う。それでも、私は課程博士を諦めないことにしています。
日本における学校教育の最高等部に位置するのが大学院の博士後期課程です。その博士後期課程に入学することを望む自分もまた、学校だけが学びの場であることを盲目的に信じていたことにようやく気づきました。
大学に所属してませんが、何か?
p.75 いつでも興味を持った時に学び始めればいいじゃないか。生涯かけていろいろなことをじっくり学べばいいじゃないか。
そうでした。
自分が在野研究者を志すきっかけを与えてくれた、『在野研究ビギナーズ』もその副題が、「勝手に始める研究生活」でした。
大学院の博士後期課程だけが、学びの場ではない。
学位だの、博士後期課程入学だのに拘る必要はないじゃないか。
管理人は、管理人のペースで、学位にとらわれることなく、じっくり学んでいきます。
大学に所属していませんが、何か?